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東京高等裁判所 昭和47年(う)3004号 判決 1973年5月30日

被告人 笠貫宏

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮一〇月に処する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用(略)

理由

本件控訴の趣意は、千葉地方検察庁検察官検事佐藤佐治右衛は、人の信頼を受けてその生命、健康を管理することを業とする者であるから、その業務の性質に照らし、人に危害が及ぶことを防止するために最善の措置を尽くすべき高度の義務が課せられており、また、看護婦は、医師の指示により医療に関与する場合にも医師の補助者であり、医療行為は常に医師の責任において行われるのであるから、医師は、たとえ看護婦にきわめて単純な行為を行わせる場合であつても、それが人に危害を及ぼすおそれのある以上、漫然と看護婦を信頼してこれに委ねないで、看護婦が過誤を犯さないよう充分に注意、監督をして事故の発生を未然に防止するのが当然であり、これを怠つたために発生した事故についての医師の責任は決して軽いものではない。これを本件についてみると、本件電気吸引器は、吸引、噴射の両機能を兼ね備えていて、採血にあたり誤つて噴射に作動させれば、供血者の血管に空気が注入され、供血者に重大な危害が及ぶものであり、また、吸引のための器具は、いちおう噴射のための器具と外観上区別されているものの、その構造上操作者が、不注意により両者をとり違えることも充分に考えられるものであるから、医師が、これを採血のために看護婦に操作させるに際しては、これらのことに思いを致し、看護婦が右過誤を犯さないよう充分に注意、監督すべきであり、しかも、それは、医師としての自覚さえあれば、容易に行うことができ、また行わざるを得ない事柄であつた。しかるに、被告人は、本門作成名義の控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、弁護人坂上寿夫、同畔柳達雄、同小野直温、同山内信俊の連名作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。

本件控訴の趣意は、要するに、被告人を罰金五万円に処した原判決の量刑不当を主張するものである。

よつて、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をもあわせて検討すると、本件は、千葉大学医学部付属病院第二内科に医師として勤務していた被告人が、多田なを看護婦とともに知人のための供血を申出た被害者杉井陽太郎(当時三二年)から噴射機能を兼ね備えている電気吸引器を使用して採血するに際し、その操作を担当した同看護婦が、その吸引用パイプを採血器具に接続して吸引に作動させるべきところを誤つて噴射用のパイプを接続して噴射に作動させたのに、その過誤を漫然と看過して被害者の静脈に採血針を刺し入れ、同人の血管に多量の空気を注入したため、同人に空気塞栓症による脳軟化症の傷害を負わせて死亡させたという事案である。

本件事故は、右のように、被告人とともに採血にあたつた多田看護婦が、電気吸引器を吸引に作動させるべきところを誤つて噴射に作動させるという同看護婦のきわめて単純で、初歩的な過誤が直接の原因となつて発生したものであるところ、医師が犯行に至るまでの間一〇回以上電気吸引器を使用する採血を行つたのに、その安全性についてまつたく検討しようとせず、漫然と看護婦にその操作を委ね切り、右注意、監督を怠つてきたため、本件において多田看護婦の過誤を看過して本件事故を発生させるに至つたもので、右被告人の行為は、人の信頼を受けて自己の責任において、その生命、健康を管理する医師としてきわめて怠慢であつたといわざるを得ず、本件事故を発生させた直接の原因が、同看護婦の過誤にあつたとはいえ、被告人の過失は重大であつたものといわなければならない。

しかし、被告人が、このような過失を犯した背景としては、前記第二内科においては、昭和四三年一一月ころから採血のために電気吸引器が使用され、看護婦が医師を補助してその操作を担当するようになつたが、右のように電気吸引器の操作を誤れば人命にかかわるものであるから、その管理者としては、採血に使用する電気吸引器を噴射に作動できないようにし、または、採血にあたる医師、看護婦に対し、噴射に作動した場合の危険を認識させ、その操作にあたつては、医師、看護婦の双方が過誤のないことを点検、確認することを指導する等事故の発生を防止するための万全の態勢を整えるべきであつたのに、これらの措置が殆んど講じられなかつたため、同内科の医師、看護婦は右危険についての認識に乏しく、採血に際し、医師は、電気吸引器の操作を看護婦にまつたく委ね、その過誤を防止するための注意、監督を行わず、看護婦も、その操作に際し、必ずしも事前にそれが噴射に作動しないことを点検確認しないまま作動させていたものであり、また、当時、被告人は、同内科の医師の中ではもつとも末輩の無給医であつたものであつて、被告人の過失は重大であつたけれども、右に判示したような背景が本件事故を誘発する温床となつていたことを看過することができないから、本件事故についての責任は、単純に被告人のみに帰せらるべきものではない。

そして、本件事故の結果についてみると、本件被害者は、大学の付属病院の医師である被告人を信頼して知人のために、善意で供血しようとしたのに、右のように電気吸引器の操作に関するきわめて単純で、初歩的な過誤により、その尊い一命を奪われたもので、同人が生前壮健で一家の中心となつて働き、かつ平和な家庭生活を送つていたものであることに照らすと、被害者本人およびその遺族の受けた損害は甚大であり、また、このような不祥事が高い信頼を受けてきた大学の付属病院で起つた点において、本件は、社会に大きな衝撃を与え、また供血に対する一般の不安を生じさせたものであつて、本件犯行の結果も、きわめて重大である。

以上のように、本件における被告人の過失は重大で、しかもその結果がきわめて重大であることに照らすと、被告人の刑事責任は決して軽くなく、さらに被害者の遺族の感情その他所論指摘の点をあわせて考慮すると、後記の量刑上被告人に有利な事情をすべて勘案しても、本件が被告人に対し罰金刑で処断するのを相当とする事案であるとはとうてい考えられない。したがつて、被告人を罰金五万円に処した原判決の量刑は、軽きに失するものといわざるを得ず、結局論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八一条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により被告事件についてさらに判決する。

原判決の確定した事実に法令を適用すると、被告人の原判示の所為は刑法第二一一条前段、第六条、第一〇条、昭和四七年法律第六一号による改正前の罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に該当するので、所定刑中禁錮刑を選択し、所定刑期の範囲内で被告人を禁錮一〇月に処することとし、なお、本件事故は、被告人が医師として当然尽すべき責務を怠つたために発生し、その結果もきわめて重大であるから、被告人の刑事責任は、決して軽くないけれども、さきに判示したように、本件事故は多田看護婦の過誤を直接の原因とし、しかも第二内科のずさんな管理態勢がその背景となつて発生したもので、その責任は、被告人のみに帰せられるものではないこと、本件事故については国と被害者の遺族との間に和解が成立し、その遺族に対し三、五八四万円余が支払われていること、被告人は、本件犯行当時前記付属病院に副手として勤務していた将来のある優秀な医師で、前科、前歴もなく、本件につき医師としての責任を果さなかつたことから被害者を死に至らしめたことに深く自省、悔悟し、現在に至るまで絶えず被害者およびその遺族に対し謝罪の意を表してきていること等の情状を斟酌し、刑法第二五条第一項を適用してこの裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、原審における訴訟費用中、証人斎藤十六、同平井昭、同小林京子、同井末みよ子、同千葉燿子、同松本一暁、同宮内義之介、同板谷喬起に支給した分は、刑事訴訟法一八一条一項本文によりこれを被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

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